頭を使うって体を動かすことに似てる
前回の話題に続いて、脳に負荷をかけるとは一体どういうことか考えてみる。
仕事柄、極端に勉強に対して意識を持っていない子どもを見ることがある。
意識を持っていないというのは、「勉強を自分事として捉えられない」といった感じの意味だろうか。まあ、そんな感じである。
つまり、勉強をしていても定着させる気もなければ、その事実に対して危機感を持つこともない状態で平気な子どもを見ることがあるのだ。
実は、直感的には不思議に思う。
そもそも、「なんでだろう」とか「どうしてかな」とか、疑問に思うことが少しでもあるはずなのにと思う時がある。
彼ら彼女らにとっては、まるで初めから自分とは違う次元に存在する言語を聞いているかのような、そんな気持ちでいるのだろうか。
同じ土俵に上がることが最優先
まず、「勉強」というものについて思考する人間と、そうではない人間がいることを理解する必要がある。
辛辣な物言いではあるが、子ども大人問わず、この分類は正しいと思う。
これは個人がいい悪いというわけではなく、環境がそうさせてしまったのだと思う。
しかし、そのズレを受け止めない限り、勉強側に近づけようとする側の努力のほとんどが徒労に終わることになる。
まずは同じ言語が通じる土俵に上げる、もしくは上がる必要があるのだ。
抽象的な表現ではあるが、これも確かにそうだと思うのである。
同じ土俵に上がるには、傾聴が必要である。
傾聴の目的は感覚のすり合わせであるが、向こう側から動くとも限らないので、基本はこちらから近づく必要がある。
よく聞き、考え、時には時間を置きながら子どものことを理解しようと努めるのである。
そうして、お互いの感覚の距離が近づいてきたと感じてきてから、次のステップに移る。
頭を使える試みを真摯に取り組む。
これはマンツーマンでも、集団でもいいと思うが、子どもが頭を使える適当な課題に取り組ませるのだ。
これは一概に年齢や学年で決めることはできない。
傾聴によって把握した感覚と、指導者の引き出しから、合うものを与える。
与えるだけではなく、時には一緒に取り組むことも求められるだろう。
特に勉強に対して抵抗感がある子は、コミュニケーションを通して理解が進むことが大いにある。
方法はいずれにせよ、前記事に書いた通り、頭が働いているかどうかに焦点を当てて取り組むことが重要である。
具体的には、5分以上の時間を使って、答えを導くことができるような取り組みがいいだろう。
頭を使わせる一番の目的
勉強の礎になることであるのは間違いないが、頭を使わなければ、つまり、想像力や論理力が伸びない。
想像力というのは、芸術的な側面のことを指しているのではなく、感情や情勢の把握にまつわる想像力のことを指している。
それらの力が伸びなければどうなるのか。
考えない大人、人生を惰性で過ごす大人、損をする大人になってしまう。
つまり、「これをしないとどうなるか」「これをするとどうなるか」「この先、どうなっていくか」「これを伝えるにはどうするべきか」など、そのようなことができない大人になってしまう。
頭を使う練習は、勉強だけではない、様々な活動で養われることだろう。
たとえば、野球やサッカーなどのスポーツでは戦略性が必要だろうし、料理では作業工程を考えて進めることが求められる。
しかし、勉強の特異な点は、思考するジャンルが多いことにある。
つまり、多くの特殊な条件の下で、それぞれに適合した答えを考えることが、今後の人生において出会う問題解決のきっかけになりえると考えられる。
「勉強だけしていても役に立たない」「取柄は勉強だけ」
などという意見も散見される世の中だが、勉強というのは、総合格闘技みたいなもので、応用や工夫次第でいろいろな戦い方がある。
その楽しみに気づくためには、まず、頭を使う楽しみを体感するべきだ。
スポーツでたとえるなら、体を動かす楽しみを知ってから、種目の練習を始める、そのような感じだろうか。
体を動かしたことがない子が、サッカーを満足に楽しめないように、
頭を使ったことのない子が、数学を楽しめるわけがないのである。