勉強の記憶と、普段の生活の記憶と
中学校の勉強の進みは異様に遅い。
たとえば数学においては、中学の学習量の5倍を高校で習う。
つまり、高校の学習速度の5分の1の速度と、単純に考えられる。
どうして、義務教育だからという配慮なのだろうか。
その真意はわからないが、一つ言えるのは、「本気を出せばあっという間に習得できる」ということだ。
コロナ禍の一年を振り返ればわかるだろう。
緊急事態宣言下で年度スタート早々に休校に追い込まれ、その遅れはいつの間にか取り戻せている。
例年より速く進めたという事実はあるが、それでも終わったのだ。
それに、混合物の沈殿でもあるまいし、時間をかければ子ども達の能力として落ち着くわけでもない。
むしろ、ハイスピード、超反復、高負荷でなければ身につかないのが勉強であるのに、その逆を行っていたことが露になったかたちだ。
話は逸れたが、数学に限らず、それは他の科目にも言えることなのだ。
たとえば、地理などはどうか。
多少物知りな小学生であれば、新たに学ぶことがない単元もあるくらいの科目だが、これは、暗記科目として捉えるよりは、普段の学びの中で吸収するのが良いだろう。
わざわざ学校のスピードに合わせて学ぶ必要はないのだ。
中学校に入り、地理を学び始めたら、物知りな人が世界地図と地球儀を片手に世界のことを語り合ってやればよい。
およそでいい。
たとえば、ヨーロッパの西部は高緯度のわりに温暖であるとか、国や山脈の名前などを一緒に調べるのでもいいだろう。
「へー、そうなんだ」とか「なんでだろうね」とか、そんな会話があるようなコミュニケーションをとるだけで、中学地理の基礎固めはできるだろう。
何時間も机に向かって学ぶことは、大人の配慮であっという間に身につく。
大量に記憶する作業は、普段の生活の記憶力とは全く異なる能力であると思う。
前者は、ある種のスキルであり、練習しなければ体得できないものであり、初学者には難しいことである。
対して後者は、頭の良し悪しに関わらず誰しもが高いレベルで持つ能力だ。
そうでなければ、どうしてどうでもいい会話を覚えていたり、毎週のテレビ番組の時間帯を把握できたりするだろうか。
普段の記憶の中に、勉強に登場する知識を混ぜていく。
その試みは、普段の生活を共にする家族にしかできないことだ。
ICT教育は、内気な日本人を救いそう
日本の教育は遅れている!?ICT教育の海外事例からわかる日本の現状
2019年の記事ですが、日本のICT教育が遅れているというもの。
2020年に入ってから、教育にタブレットを用いる私立高校が増えてきているように感じます。
ギガスクール構想も進んでいますので、遅れているのはここ数年の話であり、鎖国同様、いつかは追いつくように思います。
日本人は、日本の個性に悲観的な感覚を持っているように感じます。
長所を謙遜し、短所を自慢げに評価するその姿は、国民性としては致命的です。
真面目で丁寧なその姿勢は、確かに情緒に訴えかけるような革命家を生み出すことはできないかもしれませんが、
たとえばエンジニアや学者などで世に貢献する人材を生み出すことができると思っています。
ICT教育は、使い方によってはより閉鎖的に学ぶことを可能にするかもしれません。
しかし、その環境だからこそ伸びしろを伸ばせる、多くの日本人がいるように思います。
アクティブじゃなくてもいい。
世の中に貢献できる何かを見つけることができればそれでいいのではないでしょうか。
頭を使うって体を動かすことに似てる
前回の話題に続いて、脳に負荷をかけるとは一体どういうことか考えてみる。
仕事柄、極端に勉強に対して意識を持っていない子どもを見ることがある。
意識を持っていないというのは、「勉強を自分事として捉えられない」といった感じの意味だろうか。まあ、そんな感じである。
つまり、勉強をしていても定着させる気もなければ、その事実に対して危機感を持つこともない状態で平気な子どもを見ることがあるのだ。
実は、直感的には不思議に思う。
そもそも、「なんでだろう」とか「どうしてかな」とか、疑問に思うことが少しでもあるはずなのにと思う時がある。
彼ら彼女らにとっては、まるで初めから自分とは違う次元に存在する言語を聞いているかのような、そんな気持ちでいるのだろうか。
同じ土俵に上がることが最優先
まず、「勉強」というものについて思考する人間と、そうではない人間がいることを理解する必要がある。
辛辣な物言いではあるが、子ども大人問わず、この分類は正しいと思う。
これは個人がいい悪いというわけではなく、環境がそうさせてしまったのだと思う。
しかし、そのズレを受け止めない限り、勉強側に近づけようとする側の努力のほとんどが徒労に終わることになる。
まずは同じ言語が通じる土俵に上げる、もしくは上がる必要があるのだ。
抽象的な表現ではあるが、これも確かにそうだと思うのである。
同じ土俵に上がるには、傾聴が必要である。
傾聴の目的は感覚のすり合わせであるが、向こう側から動くとも限らないので、基本はこちらから近づく必要がある。
よく聞き、考え、時には時間を置きながら子どものことを理解しようと努めるのである。
そうして、お互いの感覚の距離が近づいてきたと感じてきてから、次のステップに移る。
頭を使える試みを真摯に取り組む。
これはマンツーマンでも、集団でもいいと思うが、子どもが頭を使える適当な課題に取り組ませるのだ。
これは一概に年齢や学年で決めることはできない。
傾聴によって把握した感覚と、指導者の引き出しから、合うものを与える。
与えるだけではなく、時には一緒に取り組むことも求められるだろう。
特に勉強に対して抵抗感がある子は、コミュニケーションを通して理解が進むことが大いにある。
方法はいずれにせよ、前記事に書いた通り、頭が働いているかどうかに焦点を当てて取り組むことが重要である。
具体的には、5分以上の時間を使って、答えを導くことができるような取り組みがいいだろう。
頭を使わせる一番の目的
勉強の礎になることであるのは間違いないが、頭を使わなければ、つまり、想像力や論理力が伸びない。
想像力というのは、芸術的な側面のことを指しているのではなく、感情や情勢の把握にまつわる想像力のことを指している。
それらの力が伸びなければどうなるのか。
考えない大人、人生を惰性で過ごす大人、損をする大人になってしまう。
つまり、「これをしないとどうなるか」「これをするとどうなるか」「この先、どうなっていくか」「これを伝えるにはどうするべきか」など、そのようなことができない大人になってしまう。
頭を使う練習は、勉強だけではない、様々な活動で養われることだろう。
たとえば、野球やサッカーなどのスポーツでは戦略性が必要だろうし、料理では作業工程を考えて進めることが求められる。
しかし、勉強の特異な点は、思考するジャンルが多いことにある。
つまり、多くの特殊な条件の下で、それぞれに適合した答えを考えることが、今後の人生において出会う問題解決のきっかけになりえると考えられる。
「勉強だけしていても役に立たない」「取柄は勉強だけ」
などという意見も散見される世の中だが、勉強というのは、総合格闘技みたいなもので、応用や工夫次第でいろいろな戦い方がある。
その楽しみに気づくためには、まず、頭を使う楽しみを体感するべきだ。
スポーツでたとえるなら、体を動かす楽しみを知ってから、種目の練習を始める、そのような感じだろうか。
体を動かしたことがない子が、サッカーを満足に楽しめないように、
頭を使ったことのない子が、数学を楽しめるわけがないのである。
頭を使わないと伸びない
当たり前と言えば当たり前なのだが、頭を使わないと伸びない。
伸びない子の特徴は
「頭を使わないようにするクセがついていて、頭を使えない」
「勉強に対する忌避感からなのか、勉強を避ける行動をとりがち」
「言われたことを素直に守らない」
など。
別に、素直じゃなくても持論があって、結果を出すならそれはよし(むしろよし)。それはきっと、指示に納得できないか、指示してる人を嫌いなのでは。
とにかく大事なのは、勉強に対して真摯に向き合う気があるかどうかということ。
どれだけ問題を解こうが、
どれだけ本を読もうが、
どれだけ机に向かおうが、
脳に負荷がかからなければ意味がない。
音読や暗唱は脳を無理矢理活用するいい方法。
頭が疲れないなら、やらないほうがマシ。
それで伸びてると大人が誤解しなくて済むのだから。
頭に高負荷をかけずして伸びることはない。間違いなく、それはない。
という愚痴です。失礼しました。
整数問題対策について
今年の大阪府公立高校入試は、一部の単元が出題されないことになっている。
そのため、出題範囲の中で、上位層をふるいにかけるための問題が作成されるはずである。
昨今、中高の数学指導では整数単元の重要性が高まっている。
大阪府の入試も例に漏れず重要視している傾向にあるので、今年は特に対策をしておきたい。
かといって、中学校で特に単元として学ぶことはないのが整数問題である。
正直、塾に通っていない人が対策するのは難しいと思う。
そこで、今回は整数問題への取り組み方についてポイントを伝えることにする。
以下は2020年度入試C問題からの抜粋である。
次の二つの条件を同時に満たす自然数nの値を求めなさい。
・2020-nの値は93の倍数である。
・n-780の値は素数である。
言葉の定義を捉える
整数問題に取り組むにあたり、特に重要なのは、言葉の定義をきちんと捉えることだ。
自然数・・・正の整数(1とか3とか100とか)
倍数・・・その数の段のこと。整数kを使って、93kなどで表すことが多い。
素数・・・その数と1以外に因数を持たない数。因数とは、その数を割り切ることができる数のこと。
素数の並びには特に規則性はない。小さい数は6の倍数前後に位置しやすいくらいで、あとは数えるしかない。
2桁の数では、九九で耳にしたことのない数は素数である可能性が高く、2以外はすべて奇数である。
数の特性をおさえて、きちんと定義を捉えることが重要なのは、そうすることで調べる範囲を狭めることができるからだ。
実験してみる
次にやるべきことは、たとえばの数を考えてみることだ。
たとえば本問では、「nが1ならどうだろう、2ならどうか・・・」と、具体的な数字を当てはめてみる。
そうすると、n-780が素数であることから、n-780は自然数でなくてはならず、nが782以上であることがわかるはずだ。(素数は2以上の整数だから)
どれくらいの数字であるか検討をつけて、範囲を狭めることが、考えを進めるうえで重要だ。
この実験については、実は方程式の利用や図形問題でも重要な取り組みである。
問題に適さない数字が答えとして出てしまったときに、修正をかけることが可能となる。
答えの検討をつけず、愚直に計算だけ行うのではミスを防ぐ機会を失っているのである。
素因数分解や方程式を立式することで、求める値の仕組みを探る
理想は「方程式の中に因数分解された式を持つ状態に変形」することができれば、ゴールは近い。
2020-n=93kと置いてみたり、n-780=pと置いてみたりする。(kは整数、pは素数)
そうすると、二つの式はnを利用して合体することができる。
1240-93k=p
ここから、kに順番に数を当てはめて素数になるものを探してもいいのだが、素因数分解をしてみると次のように因数分解できることに気づく。
31(40-3k)=p
ここまでくると、pが素数であることに気を付けると、次のことがわかる。
pが31×(整数)である以上、この(整数)の部分が1でない限り、pは素数になりえない
31×2以上の数、である時点で、因数は3つ以上存在し、素数でなくなってしまうのだ。
というわけで、40-3k=1ということが確定するわけで、k=13ということがわかる。
ここで、求めたい値はkではなくnであることに注意して、nを求めると、n=811となることがわかる。
すぐに閃くわけじゃない。あれやこれやとやってみる必要がある。
整数問題は、解くためにある程度コツが必要なのは確かだ。
しかし、一つ言えるのは、天才的に閃くから解けるという類の問題ではない。
与えられた情報を整理して、式を立てて組み合わせ、因数分解された式を含む方程式を目指すことができれば、どこかでわかってくるという感じだ。
途中で考えられるものをすべて代入して数を求めてもいい。
それも一つの解き方なのだ。
中学で習う数学は、きれいな形の解き方を中心に教わるわけだが、数学は本来泥臭い実験のもとに検証されてきた学問である。
ひとつひとつ代入という行為も、著名な学者ですら行ってきたことなのだ。
入試という、時間制限のある中でテクニックを競う場であるため、悠長なことを言ってられないという気持ちはわかる。
しかし、整数問題については、中学校で詳しく習わない以上、その場の馬鹿力的な取り組みが求められているということを忘れずにいてほしいと思う。